無理やりバカンス感を出す朝

朝起きて、まずは朝食。頼んで部屋まで持ってきてくれるタイプなので、丸テーブルを無理やりベランダに出し、ひとりバカンス感を演出してみた。
注文したのは、内臓がたくさん入ったスペシャルヌードル。味はいわゆるフォーで、朝からお腹いっぱい。
チェックアウトまでは、まだ少し時間があったので近くを散策することにした。最終目的のトゥール・スレンは、その後。重い場所へ向かう前には軽いウォームアップが必要。
灼熱のプノンペンの裏と表


まずは、ホテルから最も近い 独立記念塔 を目指した。道中には、タイ風の寺院がちらほら見える。歩いているだけなら穏やかだが、この国の歴史を少し知っていると、景色の奥に別の色がにじんでくる。
独立記念塔は、思ったよりも小さかった。しかも改修中で、見応えはほとんどない。
本来なら、独立を祝うための建物なのだろう。だが、その後にベトナム戦争の巻き添えを食らい、内乱と空爆に苛まれることを考えると、何だか呪わしい建物に見えてくる。



続いて 王宮 へ向かったが、どうにもパッとしなかったので、そのままトンレサップ川に向かった。川の付近には大きなホテルが並び、完全に外国人向けのエリア。
川には橋がかかっていたが、またしても改修中だった。観光地としてのプノンペンはまさに今作り上げているのかもしれない。
この時点で、僕はすでに小一時間ほど照りつける太陽にさらされていた。ピンク色のHMVタオルはもうびしょ濡れ。





帰りは小路を通ってホテルへ戻ることに。大通りを外れると、そこには生々しいプノンペンの生活があった。
地元の人々が暮らす区域にはゴミが散乱しており、お世辞にもきれいとは言えない。街の裏側を見たというより、プノンペンの日常にこちらが勝手にお邪魔してしまった感覚。
ちなみに、歩いていてもバイタクやシクロ以外に声をかけられることは一切なかった。そして、地元住民がこちらに向ける視線はどこか冷ややか。シェムリアップのように観光業で回っているわけではないので、当然と言えば当然かもしれない。
トゥール・スレン──学校という名の虐殺場


ホテルに戻り、急いでチェックアウトを済ませた。次に向かうのは、今回の旅行で一番の目的であるトゥール・スレン虐殺博物館 へ。
もともと学校だったこの場所は、クメールルージュによって収容所へ変えられた。学びの場が、人を殺すための場所にされたのだ。
ここでは3年弱の間に、2万もの人々が拷問され殺された。生きて帰れた人間はたったの8人で、収容所というよりは虐殺所と言った方が相応しい。

2ドルを払って中に入ると、まず目に入るのはお墓だった。これは、ここで最初に発見された犠牲者たちのためのもの。
トゥール・スレンは、ベトナム軍がクメールルージュを追放したとき、初めてその存在を諸外国に知られることになった。それまで、この場所は国内でも極秘にされていた。
その性質上、今も一部の幹部はこの収容所の存在自体を否定しているという。目の前に墓があり、建物があり、記録が残っていても、それでもなお否定する人間がいる。
A棟に残る拷問と密告の論理


まずA棟に入った。何もない部屋に置かれていたのは、金属のベッドと拘束具だけ。
床には血痕と思しきものがこびり付いていて、生々しい。部屋の空気は、学校だった場所とは思えないほど重々しい。
この校舎では、無実の人々がありもしない事実を自白するまで拷問された。そして自白が終われば、用済みとばかりに殺されていった。
クメールルージュは、革命成功後に経済が立ちいかないのは、内部に反革命分子がいるからだと考えていた。現実の失敗を直視する代わりに、敵を作ることで問題を解決しようとしたのだ。
そのため、民衆の中に潜む反革命分子を洗い出すには、自白や密告が必要だった。例えそれが、拷問によって引き出された嘘の供述であろうとも。

外に出ると体育で使いそうな大きな木の吊り台が見える。クメールルージュはこれを改悪し拷問器具にした。人々はこの吊り台に吊るされ、自白するまで地面に叩きつけられた。もし気を失えば、手前の汚水の入った甕に頭から沈められ再び転落地獄。彼らが助かる道は自白以外になかった。もちろんこの場合の「助かる道」とは処刑を意味する。反革命分子である旨の調書が取れれば、クメールルージュにとってその人間はもう用済みなのだ。
自白まで叩きつけられた吊り台の記憶
外に出ると、体育で使いそうな大きな木の吊り台が見えた。学校にあれば運動器具にしか見えないものを、クメールルージュは拷問器具へと変えていた。
人々はこの吊り台に吊るされ、自白するまで地面に叩きつけられた。もし気を失えば、手前に置かれた汚水入りの甕に頭から沈められる転落地獄。
ただし、ここで言う「助かる道」は、命が助かるという意味ではない。反革命分子である旨の調書が取れれば、その人間はクメールルージュにとってもう用済みだった。
B棟に並ぶ非業の死の記録


B棟には、ナンバー入りの犠牲者たちの写真が並んでいた。ここで最初に写真を撮られた人々が、もし次に写真を撮られる機会があるとすれば、それは殺された後だった。
写真のひとりひとりに、当然ながら思い出がある。家族があり、友人があり、その人だけの生活があったはずだ。その悲しみの総量は計り知れない。
ここでの死は、ホアロー収容所で見たベトナムの愛国者たちのような名誉ある死ではない。ある日突然連れ去られ、訳も分からず拷問され殺される非業の死。
逃げ道のない足枷の独房



次の棟には、レンガ製と木製の独房が残されていた。人々はここで足枷をはめられ、狭い空間に閉じ込められた。
身動きも取れない場所で、日々どこかから阿鼻叫喚の叫び声が聞こえてくる。その絶望感は、想像しようにもできない。
自分なら、真っ先に死ぬことを考えてしまうかもしれない。だが、何よりも自白が欲しいクメールルージュは、それすら許さなかった。何よりも自白が欲しいクメールルージュは囚人の自殺を防ぐために建物を有刺鉄線で覆っていた。


最後のD棟には、拷問器具が展示されていた。趣味のいい展示物とはとても言えないが、実際にこの器具で人々が拷問された以上、博物館として展示するのが義務だろう。
写真の端に見える拷問風景の絵も、おぞましかった。単なる説明画ではなく、そこで起きたことを無理やり目の前に引きずり出してくるような絵だった。
この絵を描いたのは、数少ないトゥール・スレンの生き残りである ヴァン・ナット氏 である。何のために彼がこれを書いたのかと思うと、やりきれない。
トゥール・スレンの空は今日も残酷に美しい

一通り収容所を見終えると、身も心もからからになっていた。そして、飲み物を買い、ベンチに腰を下ろして一服。そこでようやく、今いる場所の外側に目が向いた。
2万人もの人が死んだこの場所から見える景色は、殊のほか素晴らしかった。今にも落ちてきそうな雲と、どこまでも終わらない空。椰子の木は誇らしげに天へ伸び、花はそれに負けじと華麗に咲きこぼれていた。
生命は、生きているからこそ生命であり、終わってしまえばもはや何者でもない。
人間の尊厳など、ここでは何の意味も成さない。虐殺が続いた3年間、カンボジアの空は今日と同じように美しかったのだろう。

虐殺博物館を出た後、ホテルへ戻った。途中、お腹が減って仕方なくなり、カフェ風のレストランで食事をすることに。
ただ、ホテルにはタクシーを待たせているので、料理を3分で胃の中に流し込む。結果、どうにか出発には間に合った。
タクシーの後部座席から外を眺めつつプノンペンと別れた。たった1泊の滞在だったが、僕にとってはかけがえのない経験になった。
明るい空も、埃っぽい道も、怪しい運転手も、暗い歴史も、全部まとめてプノンペンだった。唯一悔やまれるのは、翌日お腹を壊したことだけ。