気持ちよく目覚めたツェレの朝。小雨の天気は残念だが、ホテルの朝食が美味しく気持ちは高ぶる。わざわざ別料金を払ったので、家族4人分くらいのチーズとハムを食べてしまった。塩分過多。
ホテルに荷物を預けてツェレ駅に移動。夜にはよく見れなかった通りには、品のある住居が静まり返って並んでいた。ツェレ駅もこじんまりと落ち着いた佇まいで、ベルリンから3時間で別世界に来たようにも思えてくる。駅の中に入ると、座って待っている先輩の姿が見えた。中学時代以来なので実に30年ぶりだが、職場の同僚に会うような自然な再会だった。SNSでお互いの近況を知っていることも大きい。しかし、改めて30年という時の隔たりを考えると、時の流れの速さに立ち眩みを起こしそうになる。
ツェレでの目的は市内観光はもちろんだが、ベルゲン・ベルゼン強制収容所を訪れること。ハンブルクへの中継地点を探している時にたまたま近くにあるのを見つけた。ここはアンネ・フランクの最期の地でもあり、訪れてみるのも悪くないと思った。しかし、収容所に行くにはツェレ駅からバスを乗り継がなければならず、アクセスは非常に悪い。折しも外は雨。傘をさしてバスを待ちながら、現地の先輩がいなければわざわざ行くことはなかっただろうとしみじみ思った。
バスを乗り継いでやっと収容所に到着した。ここは解放したイギリス軍がチフスの蔓延を防ぐために焼き払ってしまい、現在は跡形もなく実質的に博物館と原っぱのみとなっている。傘の水を払って博物館に入ると、まず驚くのはミニマルなそのデザイン。周りを囲むコンクリートの壁は無機質で、まるでここで起きた出来事に関心などないようだった。館内にはたくさんの写真と犠牲者の遺品があり、説明パネルには全てドイツ語の後に英語が併記されている。無数の遺体が放置されている写真など正視に耐えないものも多く、先輩は早々に気持ちが参っていた。敗戦前は遺体の焼却が追い付かず、急遽穴を掘って処分していたのだ。つまり、ナチスにとって写真に写るものは人ではなく人の形をした何かだった。
ベルゲン・ベルゼン強制収容所は当初ソ連兵の捕虜を収容していたが、戦局の悪化に伴い、他の収容所と同様、ユダヤ人を収容するために使われた。ガス室はなく、野戦病院としての機能もあることから、いわゆる絶滅収容所とは異なっているが、衛生状態が極めて悪くチフスが蔓延していた。犠牲者の総数は5万人と推定されている。アウシュヴィッツに比することはできないが、高熱と下痢に苦しめられて亡くなった犠牲者の苦悶を思うと、絶滅収容所以上に地獄的とも言える。
とはいえ、ここに人間性の欠片もなかったのかというとそうでもない。収容所にパンを投げ入れる地域住民は存在したし、囚人が徒党を組んでレジスタンスを企てるという権力への抵抗もあったようだ。こんなことで安堵を得るのもおかしな話だが、骨と皮だけの人間の写真ばかり見ていると自然とそんな気持ちになる。
展示フロアの外には、うら寂しい原っぱが広がっていた。館内のマップと照らし合わせてもどこがどこだか分からないし、ぼんやり眺めていると今まで見た凄惨な光景が浮かんでは消えていく。雨がしみこむ大地の下には、いまだに誰かすら分からない犠牲者が埋まっているのだろう。
前述の通りここはアンネ・フランクの最期の地として有名なのだが、雨も強まっていたので外に出るのは断念した。敷地はとてつもなく広いし、あっても追悼碑だけなのは分かっていた。享年15歳。命の価値は等価だが、未来ある少女がここで飢えと疫病に苦しんで亡くなったことには大きな不条理と喪失を感じる。僕たちは、彼女が生きていたら書いていたかもしれない数多くの本を永遠に読むことができない。「ペリリュー・沖縄戦記」の著者のユージン・スレッジが言う通り、戦争は「野蛮で、下劣で、恐るべき無駄」なのだ。
(続く)