ベルリンから1時間、ザクセンハウゼン強制収容所へ




ベルリン2日目は、ザクセンハウゼン強制収容所 へ向かうことにした。
通常、強制収容所は人目につかない辺鄙な場所に作られることが多い。しかし、ここ ザクセンハウゼンはベルリンからわずか1時間 ほどの距離にある。
最寄り駅は オラニエンブルク駅(Oranienburg)。朝早く到着したこともあり、駅周辺は人通りが少ない。
昨日までの 雑然としたベルリンの雰囲気 とは打って変わって、そこに広がるのは 静かで整然とした住宅街だった。
静寂の中、誰もいない道を歩く



オラニエンブルク駅から 徒歩30分。ついに ザクセンハウゼン強制収容所 に到着した…と思いきや、実際には そこからさらに歩く必要があった。
インフォメーションセンターで 簡単にルートを確認し、収容所跡地まで壁伝いにひたすら歩く。しかし、歩けど歩けど、入口が見えない。
公共の施設だが、周りには 誰もいない。ただひたすら、静寂の中を進むだけ。
右手には 警察の施設 があり、「もしかして、うっかり立ち入り禁止エリアに入っていないか?」と不安が募る。
収容所に向かうこの道のりが、まるで過去にここへ送られた人々の心情を追体験するような気分 にさせる。
ドイツ初の強制収容所、その歴史



しばらく歩き続け、ようやく 収容所の入り口 を発見。
門の柵には、あの有名な言葉──
「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)」 が刻まれている。
ザクセンハウゼンは、ドイツで最初に作られた強制収容所。ここにはユダヤ人だけでなく、政治犯や反体制派 も収容されていた。
さらに、ここは SS(突撃隊)のトレーニング施設 でもあり、収容所の 入口にある「A塔」 は、当時彼らの宿舎だったという。A塔の内部は見学可能で、SSの悪行の数々が、所狭しと展示されている。(ちなみに、A塔の手前に New Museum という展示館もあったが、すべて ドイツ語表記のみ だったので完全にお手上げ)
A塔を出て門をくぐると、目の前には無限に広がる殺風景。その広さたるや、東京ドーム何個分か と表現したくなるレベル。放射線状に点在する収容施設は、はるか彼方でほぼ見えない。
そして、背後を振り返ると——
そこには 終わりなく続くぐるぐる巻きの有刺鉄線 があった。
囚人たちは、この広大な地で朝夕の点呼を受けていた。しかし、それは単なる確認作業ではなく、夕方の点呼で処刑される者もいた という。
医療施設という名の人体実験場




収容所内に並ぶ バラック(囚人収容施設)は、一部が展示施設になっている。
まず、西側から回って最初に入ったのは 医療施設。しかし、ここで行われていたのは 医療行為だけではなかった。
この場所では、囚人への治療と称しながらも、人体実験が行われていた。
各部屋には、当時の実験内容や、それによって犠牲になった人々の記録が展示されている。マスタードガスの実験 にされた囚人のエピソードなどもあった。
さらに、別の建物では、囚人たちの遺品 が展示されていた。収容所の広さも圧倒的だが、展示されている情報量もそれに負けていない。
これは、ある意味で ドイツの反省の度合い を示しているとも言えるのではないか。
ヒトラーはなぜ、ユダヤ人を標的にしたのか?






西側をさらに進むと、Z施設(Station Z) と呼ばれる処刑施設跡 があった。ここは、まさに大量処刑の場。多くの囚人が ガス室へ詰め込まれた後、焼却処分された場所 だ。
今は跡地となっているが、当時ここで何が行われていたのかを想像するだけで 背筋が凍る。
ただの建物ではなく、人間を効率的に処理するためのシステム が確立されていた場所。
考えることが多すぎて、珍しく写真を撮り忘れてしまった。
ただ、勘違いしてはいけないのは、この強制収容所自体は、ヒトラーが全権を握る前に作られた施設 であるということ。しかも、当初の目的は、政治犯やナチスに敵対する勢力を押さえつけるため だった。
では、ヒトラーは いつ、そしてなぜ反ユダヤ主義に転じたのか?
実は、その 明確な理由や時期は分かっていない。あくまで個人的な推測ではあるが、彼は ユダヤ人を「票稼ぎのための敵」として利用 したのではないだろうか。
当時のヨーロッパには すでにユダヤ人への偏見が根強く存在 していた。そして、ヒトラー自身、不遇な過去 を彼らに照らし合わせて悶々としていたかもしれない。ある意味、彼にとってユダヤ人は、政治的な都合と個人的なルサンチマンを昇華する対象 だったのではないか。
しかし、どんな理屈を並べようとも、この歴史が許される理由には1ミリたりともならない。
プライバシー皆無の生活空間




収容所の見学も終盤。最後に向かったのは、東側にあるバラック。
ここでは、当時の囚人たちの住環境が再現 されている。三段ベッドはまだしも、敷居のないトイレや、水飲み場のような風呂場 を見ていると、もう少しプライバシーがあってもよいのでは と思わずにはいられない。
もちろん、当時と人権感覚が違うとはいえ、これはあまりに過酷。さらに、ここの風呂場では、看守による体罰や虐待が日常的に行われていた という。
閉鎖された空間で、権力者の私利私欲のために身体を捧げざるを得なかった囚人たち。
その事実を思うと、胃の奥から何かがせり上がってくるような感覚 に襲われる。
バラックを出ると、入り口前に花束が捧げられていた。その場でしばし黙祷を捧げる。すると、ふと気づいた──
来るときは閑散としていた収容所に、ツアー客がたくさん訪れていたのだ。
「強制収容所を巡るためにベルリンに来る人なんているのか?」
そう思っていた矢先だったので、この瞬間、同志を見つけたような心強さ を感じた。
ベトナム料理と庶民感覚


帰り道、オラニエンブルク駅の近くにあった ベトナム料理屋 に立ち寄ることにした。
周りを見渡せば、あるのはケバブ屋とピザ屋ばかり。「ちゃんと食べたい」と思うと、どうしても アジア料理に落ち着いてしまう。
注文したのは ブン・ボー というベトナムの牛肉麺。これが、なかなかおいしい。ザクセンハウゼンで受けた精神的な重みを、少しだけ和らげてくれるような味だった。(しかし、ついでに頼んだコーヒーがびっくりするほどまずかった)
しかし、美味しいブン・ボーが救いだったとはいえ、チップ込みで1,800円 と考えると、どうにも満足度は低い。
ただ、ここでの真の問題は、ついつい日本円に換算してしまう自分の庶民感覚。「ヨーロッパは物価が高い」と分かっていても、いちいち換算してはため息をついてしまう。
お腹が満たされた後は、再びベルリン市内へ。電車に揺られながら、ザクセンハウゼンで見た光景を思い返し、時空を超えて80年前と現在を行ったり来たりした。
(続く)