The Last Girl: My Story of Captivity and My Fight Against the Islamic State (2017)

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この本は、簡単にいうとイスラム国(ISIL)の捕虜として奴隷状態に陥った女性が、強靭な意思と行動力で自由を勝ち取った自伝ということになる。が、この自伝が悲惨な個人の体験を知らせるに留まらず、政治や宗教や人権についても啓発的なのは、彼女の生い立ちによるところが大きい。彼女は、政情不安定なイラク北部の国境付近に生まれ、民族的には少数派のクルド系で、なおかつYadizi(ヤズィーディー)教という主流のイスラム教徒と対立構造にある宗教の教えに則り生活している。つまり、イラク国内で政治的にも経済的にも民族的にも最弱の立場にあったのだ。

Yadizi教自体は歴史が古く穏健な宗教と言ってもよさそうだが、排他的な要素が強く、それが経済基盤の脆弱さとイスラム教との不和を生んでいる部分は否めない。だからと言って、彼女の村がイスラム国に包囲された時に、全員が棄教すればよかったと言うつもりはない。当然、少数派も多数派同様の権利が保障されるべきだ。しかし、戦乱期にそんな理屈が通る訳もなく、彼女の不幸が少数派ゆえの不幸と考えるとなんとも歯がゆい。

この手の自伝をよく読む人間からすると、彼女の経験した捕虜の日々の悲惨さについては正直特筆すべきものはない。むしろ、心を動かさせるのは悲惨さではなく、彼女のどんな状況にあっても生きる希望と反抗心を失わない強烈な姿勢に尽きる。イスラム国の兵士に対する悪態もさることながら、彼女は匿ってくれた家族に対しても「イスラム国に隷属を強いられるYazidi教徒に対して声を上げなかった」として心密かに糾弾した。少数派としての誇りを忘れない彼女の怒りの矛先は、イスラム国だけでなく傍観者である多数派全体に向けられる。

結局、彼女自身は自由を取り戻すのだが、住み慣れた村も多くの家族も失ってしまった。そして、現在は世界を股にかけ、女性やマイノリティの人権保護を中心とした精力的な活動を行っている。こんな出来事がなければ、彼女はイラクの小さな村で夢であった美容院をやっていたかもしれない。そう思うと運命の皮肉を感じざるを得ないが、それを最も感じているのは当の本人だろう。彼女の生まれ故郷であるKochoの一刻も早い復興と平穏を切に願う。

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