第二次世界大戦およびそれに至る戦間期は、現代において人間の命が最も軽い時代だった。世界恐慌に端を発し、第一次世界大戦の戦後処理の歪みがファシズムの形で現れ、ユダヤ人をはじめ多くの罪なき人々が犠牲になった。この本はその犠牲者たちを、Bloodlands(意訳:血塗れの大地)を舞台として描く。Bloodlandsは地理的にはドイツとソ連の間にあるバルト三国、ポーランド、ウクライナ、ベラルーシを含み、ヒトラーとスターリンが自己のおぞましい政治理念を実現するための実験場にされた。この時期の惨禍を振り返る時、どうしてもホロコーストの生存者やナチスの残酷さに焦点があたりがちで全貌が見えにくいが、本書によって俯瞰的かつ包括的に犠牲者に何が起こったかを理解することができる。
ウクライナの大飢饉(ホロモドール)やユダヤ人の絶滅収容所など、人の命が塵芥のように扱われる例は枚挙にいとまがない。ヒトラーにせよスターリンにせよ、独裁者は自己の理想の世界を作るために政治を行うが、理想と現実のギャップを埋めるために人々を酷使し、人心掌握のために国民共通の敵を仕立て上げる。この過程で軌道修正ができればいいが、独裁者を中心とした権力構造が出来上がると、彼らの思想に心酔しているか、もしくは彼らからの迫害(≒死)を恐れて、生命に対する倫理がいつの間にか消えてしまう。こうして独裁国家は、歯車の壊れた殺人マシーンになる。
例を挙げるなら、ウクライナに関しては、ソ連配下の共産党員が根こそぎ民衆から作物と種を徴収しておきながら、目標達成に向けてさらに徴収を続けるという滑稽にも映る暴挙に出た。そして、いよいよ餓死者が出始めると、それを共産主義を貶めるための意図的な死とすることでこの無慈悲な政策を継続した。飢えて死んでいった数百万の農民の絶望は計り知れない。また、ユダヤ人に関しては、アーリア人の発展を妨げるものとして、ヒトラーにより段階的に隔離され、戦局が悪くなると問答無用で収容所のガス室に送られ殺された。強制収容所というとアウシュヴィッツが有名だが、それは生存者がいたからであり、他の一般に無名な収容所はその悲惨さを語る生存者そのものがいない。
こうしてBloodlandsでは1,400万もの人々が確信犯の独裁者と時流の犠牲になった。1,400万は単なる数字だが、そのひとりひとりに家族や友人がいて、代えることができない物語がある。著者がいうように、僕たちはこういった悲劇を繰り返さないためにも、その数字を機械的に変換された記号として扱うのではなく、それぞれの命へと戻さないといけない。では、数字を命へ戻すとはどういうことか。唯一といえる答えはないが、それは絶えず犠牲者を「思い出す」ことだと思う。本を読むことでもいいし、現地を訪れることでもいい。ロシアのウクライナ侵攻を目の当たりにするとあまりに無力だが、やらない善よりはやる偽善。自分がダークツーリズムに惹かれる理由のひとつは、「思い出す」ということに繋がっているのかもしれない。