水俣病 (1972)

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水俣病──国家と企業の倫理観が試された事件

戦後社会を振り返ることが増えたが、自分の知識には穴が多いことに気付く。そのひとつが 公害問題

水俣病については、社会科の授業で名前と発生地域を習った程度で、具体的な実態はほとんど知らなかった。

本書の著者は、水俣病の患者と向き合い、臨床面から研究を続けた医学者 だ。だが、水俣病のような未知の環境汚染問題に関わることは、単なる医学的活動では済まされない。

人命軽視の大企業四角四面の国家 を相手にしながら、病気の原因を特定し、被害者の救済・補償を求めるには、政治的な活動が不可欠だった。

もはや医学者の範疇を超えた戦い といっていい。

それでも 患者を思い、医師としての役割を自問自答しながら 社会正義のために全身全霊を尽くした著者の姿勢には、ただただ頭が下がる。

この意味で本書は、水俣病の本であり、ひとりの医師の自伝 でもある。

高度成長期の企業倫理の闇

それにしても、高度成長期の企業倫理は、あまりに酷い

水俣病の発生源である企業は、排水と病気の関連性が 明らかに指摘されていた にもかかわらず、排出場所を姑息にも変更 し、責任逃れのために小賢しいロジックを加えた報告書 を作成した。

つまり、あらゆる手段で 問題を隠蔽しようとした のだ。

「前例がない問題だから仕方がない」と擁護するには、あまりにも 悪意に満ちた対応 だった。だが、皮肉にもこうした企業の倫理の欠如が、後の コーポレートガバナンス(企業統治)の強化 につながったことも事実だ。

経済発展と人権軽視のジレンマ

経済活動は 人間の幸福のために行われるべきもの だ。であれば、生命への配慮は必要以上になされるべき だろう。

しかし、現実は違う。

企業は 自己の利益を最優先 するため、おのずとリスクの検証は甘くなり、こうした厄災は繰り返される。この体質は、本質的に今も何も変わっていない のではないか。

著者が言うように、短期的な汚染は公害として可視化される が、微量な長期汚染はすぐには症状として現れない。もし、今後、添加物や化学物質の長期的な有害性が人体を蝕む事故が起きたとしても、企業は 「証拠がない」と言い逃れをする だろう。

とはいえ、リスクばかり考えていては経済は成り立たない のも事実。経済発展と人命軽視のジレンマ は、永遠に解消されることはないのかもしれない。

水俣病は、実質的な殺人に等しい

水俣病の患者は 有機水銀によって中枢神経を破壊され肉体的にも精神的にも、致命的なダメージ を負った。これは単なる 後遺症 ではなく、もはや 社会的な死 に等しい。

さらに、国に見捨てられ、回復の見込みのない肉親の介護を背負わされた遺族の絶望 は想像を絶するものだっただろう。

つまり、水俣病は、企業と国家による実質的な殺人 とも言える。

だからこそ、企業としても国家としても 最後まで責任を取らなければ道理が立たない はずだ。

著者をはじめとする関係者の尋常ならざる努力によって、補償や救済制度が整備されたことは喜ばしい。しかし、企業や国家の生命への倫理観が本当に改まったのかは、正直疑問が残る

そして、読後も、もやもやとした気持ちは晴れないままだった。

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