国立民族学博物館に行って以来、戦後社会を振り返ることが増えたが、自分の知識が穴だらけであることに気付く。そのひとつが公害。恥ずかしいことに、水俣病については社会科の授業以来で名前と発生地域程度しか知らなかった。
著者は水俣病の患者と向き合い、臨床面から水俣病の研究を続けた医学者。そもそも今と比べ環境意識が低い高度成長期の日本に起きた未知の環境汚染問題に関わるということは、医学的な活動以上に政治的な活動が必要になる。人命軽視の大企業と四角四面の国家と対立しながら、水俣病の原因特定から被害者救済の補償問題まで徹底して行うというのは、正直医学者の範疇を超えている。それでも、患者も思い、医師の役割について自問自答しながら社会正義のために全身全霊を尽くす姿には頭が下がる。そういう意味では、本書は水俣病の本であり、ひとりの医師の自伝といっていい。
それにしても、高度成長期の企業倫理はあまりに酷い。明らかに水俣病と自社の排水が水俣病の関連があると指摘されながら、排出場所を姑息にも変え、責任逃れのために小ざかしいロジックの報告書を作成するなど、前例がないこととは言え問題がありすぎる。ある意味、こういった出来事があったからこそ、その反省が現在のコーポレートガバナンスにつながっていると考えるべきかもしれない。
経済活動を人間の幸福のために行なっている以上、生命への配慮は必要以上になされるべきだが、現実には企業は自己の利益を優先するため、おのずとリスクの検証は甘くなりこの手の厄災が起こる。この体質は今も本質的には微塵も変わっていないのではないだろうか。著者がいうように、短期の汚染は公害の形で可視化されるが、微量な長期汚染は簡単に症状として現れない。もし、この先添加物等の有害性が人体を蝕む事故が発生した場合に、企業が言い逃れをしないとは到底思えない。とはいえ、リスクばかり考えては経済は成り立たないし、経済発展と人命軽視のジレンマは永遠に解消されない。
しかし、本書を読んでわかるのは、水俣病患者は有機水銀により中枢神経を破壊され、肉体的にも精神的にも致命的に傷を負う。それは後遺症というレベルではなく、社会的な死といっても過言ではない。国に見捨てられ、回復の見込みのない肉親の面倒を見なければならない遺族の絶望は察するに余りある。つまり、水俣病は実質的に殺人にも等しいわけで、企業して国家として患者やその遺族に対して最後まで責任を取らなければ道理が立たない。著者や関係者の尋常ならざる努力により、水俣病患者に対する補償や制度がある程度整ったことは喜ばしいが、企業や国家の生命に対する倫理観が改まったとはお世辞にも言えず、読後ももやもやした気持ちは晴れない。