博物館を巡って、吉村昭『関東大震災』を読む




相変わらずコロナが収束しないので、ゴールデンウィークの海外旅行は断念した。代わりに訪れたのは、千葉・佐倉にある 国立歴史民俗博物館。
広大な敷地と緻密に作り込まれた展示に圧倒されたが、特に心を奪われたのが 関東大震災のコーナー。
なぜかは分からない。
それまで 単なる歴史のキーワード だったものが、被害の実態を知ることで 急に現実味を帯びてきた のかもしれない。
興奮冷めやらぬ僕は、帰りの電車で 吉村昭の『関東大震災』をKindleで買い、多くの人命を奪った天変地異の詳細を知ることになった。




関東大震災最大の悲劇、陸軍被服廠跡を訪ねて
東京に住んでいると、関東大震災は 「いつかまた起こるかもしれない大災害」 という意識はあっても、
具体的に どこで何が起きたのか を知らない人は多いのではないか。
僕自身、そのひとりだった。
『関東大震災』(吉村昭) を読んで初めて、震災最大の惨事が浅草の陸軍被服廠跡で起きた ことを知った。そして、その事実を確かめるべく、早速現地へ向かうことにした。
JR両国駅から歩いて約10分。目の前に広がるのは 大きな公園と慰霊堂、そして復興記念館。今は何の変哲もない静かな場所だが、100年前、ここで4万人弱が命を落とした。
当時、この地は 陸軍被服廠の移転後の広大な空き地 で、多くの避難民が家財道具とともに逃げ込んだ。
しかし、そこに 突如として旋風が発生。密集した家財道具に燃え移った火は 炎の竜巻 となり、人々を 逃げ場のない地獄 へと変えた。
「そんなことが本当にあり得るのか?」
火災旋風による被害は文献にも証言にも多く残っているが、人や馬が宙に舞うほどの突風が吹いた という記述には、にわかに信じがたいものがあった。
しかし、『関東大震災』を読み進めるうちに、これは 誇張ではなく、現実に起きた惨事 なのだと確信するしかなかった。
震災の記憶を伝える復興記念館と慰霊堂
復興記念館では、当時の 被害状況と復興の歩み が写真資料とともに展示されていた。
ぐにゃりと溶けた鉄柱、
一面焼け野原と化した東京、
身元不明の遺体が無数に並ぶ写真——。
それらを目の当たりにすると、「炎の竜巻なんてあり得ない」 という先入観は吹き飛んだ。この場所で、確かに 地獄のような火災が発生し、数万人の命が一瞬で消えた のだ。
復興記念館の向かいにある 東京都慰霊堂 では、数名が静かに手を合わせていた。慰霊堂の静寂に耳を澄ませると、ここで命を落とした人々の声なき声が聞こえてくるような気がした。
合掌。
500人の遊女が逃げ込んだ弁天池






関東大震災の被害者といえば、陸軍被服廠跡の火災旋風で命を落とした4万人 が最も有名だ。しかし、被害者の数は少なくとも、もうひとつ 忘れてはならない悲劇の場所 がある。
それが 吉原・弁天池(旧:親吉原花園池) だ。
当時の吉原には遊郭があった。そして震災直後、火の手に追われた500人近くの遊女が弁天池に飛び込み、溺死した。
彼女たちは 軟禁状態 にあり、遊郭から出ることすら許されていなかった。さらに 土地勘もないため、どこに逃げればいいのかも分からなかった。
結果として パニックになった遊女たちは、次々と弁天池へと飛び込み、命を落とした。ある意味、彼女らは天災の被害者であると同時に、時代の犠牲者でもあった。
現在、弁天池は お寺に姿を変えている。
当時の面影はほとんどなく、唯一の痕跡があるとすれば、近隣に立ち並ぶ昭和風情の風俗店 くらいだろう。
遊郭というと隔世の感があるが、現代の性風俗に従事する女性たちを思うと、100年前と本質的には何も変わっていないのではないか という気持ちにもなる。
昼間の吉原は閑散としていたものの、黒服の男性があちこちにいて、とても 気軽に写真を撮れる雰囲気ではなかった。
震災が炙り出した社会の歪み
今回、国立民族学博物館をきっかけに、関東大震災という 身近な歴史の傷跡 を辿ることができた。この震災は 人間が抗うことのできない自然の猛威 だった。
しかし、遊女たちの死や、流言飛語による朝鮮人虐殺を考えれば、社会の構造や人間の心理が、悲劇を加速させた側面もある。
そう思うと、理性を是とする僕たちが 教訓として胸に刻むべきこと は、あまりに多い。