聖職の碑 (1980)

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「木曽駒ヶ岳大量遭難事故」とは

山岳遭難への興味が尽きず、国内の事故についても調べてみた。今回手に取ったのは大正時代に発生した 木曽駒ヶ岳大量遭難事故

近代登山が 大衆にも広がり始めた1913年(大正2年) に起きた事故で、学校行事としての修学登山で多くの 教師と生徒が犠牲 になってしまった。

予測不能な台風と、生徒たちの恐怖

遭難事故の原因を 判断ミス で片づけるのは簡単だ。

しかし、当時の状況を考えれば、「台風の北上を正確に予測できなかった天気予報の精度の低さ」「避難小屋が全壊していたという環境面の脆弱さ」 を無視することはできない。

結局のところ、 「運が悪かった」 という他ないのが実情だった。

嵐の中、屋根すらない小屋の中で 死を待つしかなかった数十名の生徒たち。そして、暗闇の中、彼らの命を預かる校長の絶望

これらを想像すると、読んでいるだけで 背筋が寒くなる

教育理念の対立が生んだ悲劇

この遭難事故が他と異なるのは、単なる 登山の判断ミス ではなく、教育方針における「理想派」と「実践派」の対立の中で起こった という点だ。

「実践派」の校長は、「理想派」の若手教師に 登山という実践的な学びの意義 を伝えようとしていた。当時、登山は 「自然と対峙し、克己心を育てる教育」 の一環だったのだ。

その教育理念のもと、校長は 多少の困難があっても登るべき という信念を持っていたのだろう。しかし、その熱意が 生徒たちの命を奪う結果 となってしまった。

ちなみに、事故後の処理では、教育委員会や地元住民との軋轢が浮き彫りになった。そこには 日本社会の封建的な体質 が見え隠れし、正直 うんざりする場面も多かった

当時の教育者の情熱

この事故を通して強く感じたのは、当時の 教育者の情熱の熱さ だ。彼らは 教育とは何かを本気で議論し、それぞれ確固たる信念を持っていた

遭難事故後、理想派の教師が、命を落とした実践派の校長の意思を汲み、記念碑の建立に尽力した というエピソードがある。

教育の理念に違いはあれど、生徒を想う気持ちは共通していた。理想派も実践派も、教育者としての愛情の表現方法が違うだけだったのだ。理想派にとって、校長はやはり校長であり、偉大な教育者 だった。

彼らの教育への情熱を考えると、 現代の教育者はどうなのだろうか と懐疑的にならざるを得ない。敗戦と同時に、日本は教育面でも 牙を抜かれてしまった のかもしれない。

この事故は 悲惨としか言いようがない。しかし、そこには 教育の在り方や人間の信念 について、考えさせられるものが多くあった。

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