山岳遭難への興味が収まらず、国内の事故にも手を伸ばしてみた。これは近代登山が大衆にも広まり始めた大正時代の事故(木曽駒ヶ岳大量遭難事故)で、学校行事としての修学登山で多くの教師と生徒が遭難死してしまった。
原因を判断ミスにするのは簡単だが、強烈な台風の北上を読めなかった当時の天気予報の精度の悪さと、避難しようとした小屋が全壊していたという環境面の脆弱さは如何ともしがたく、結局のところ運が悪かったとしかいいようがない。嵐の中、屋根もない小屋の中で死を待つしかできない生徒の恐怖や、真っ暗闇で数十人の生徒の命を預かる校長の絶望を想像すると、読みながら背筋が寒くなってくる。
この遭難事故が他のそれを趣を異にするのは、この修学登山が教育方針における理想派と実践派の対立構造の中で起きたということだろう。実践派の校長には、理想派の若い教師に登山と言う実践の学びの意義を何としても伝える必要があった。隔世の感があるのが、両派閥の教師の教育に対する熱い情熱。喧々諤々の議論を見て、ここまで教育に対して真摯に向き合うことを現代の教師はしているのだろうか疑問に感じた。やはり敗戦と同時に日本の教育界は牙を抜かれてしまったのではないか。悲惨な遭難から離れて、戦後の日本にまで思いが及ぶ。
事故後の処理では、教育委員会や地元住民とのいざこざの中に、日本の封建性が垣間見えてうんざりする場面が多い。そんな中、理想派の教師が、命を落とした実践派の校長の意志を汲み、記念碑の作成に尽力するところに心を打たれる。結局、理想派も実践派も表現の違いであって、教育者としての生徒への愛こそが全てなのだと。命を賭してそれを示した校長は偉大だったと。悲惨以外に表現が難しい悲しい事故だが、遭難以外に考えさせられることが多い、示唆に富む作品だった。