プノンペンの「トゥールスレン虐殺博物館」にまで足を運んでおきながら、200万人とも言われるカンボジア虐殺の主犯であるポルポトについて、僕は具体的なことを知らなかった。700ページにおよぶこの大著を読むまでは。
僕の無知はあるにせよ、ポルポトが何者であったかというのは、実際世にあまり知られていない。その理由は、これがカンボジアの悲劇の一因でもあるのだが、クメール・ルージュ(ポルポトの政党)の徹底的な秘密主義による。社会主義がそもそも資本主義のアンチテーゼであったがゆえに、社会主義者は常に体制派にとって最も危険な敵にならざるを得ず、クメール・ルージュは国王のシハヌークの弾圧を避けるために、偽名を使いながら活動し、待ち合わせ場所すら暗号化していた。
ポルポトは元来温和で人懐こい性格で、強烈な愛国者だった。彼が夢見たものは、血も涙もない強欲な独裁者ではなく、クメール人の誇りを取り戻すことだった。カンボジアは12世紀のクメール王朝の隆盛以降、領土をベトナムとタイに侵食され、ベトナム戦争に巻き込まてからはアメリカから275万トンもの爆弾を落とされた。そんな危急の時にあって、社会主義という新思想がポルポトにとってカンボジアを救う救世主に映ったのは想像に難くない。つまり、ポルポトは純粋な民族主義者であって、彼にとって社会主義の暴力革命は手段に過ぎなかった。
この愛国者の歯車を狂わせたものは、仏教思想だったと僕は考える。著者が指摘しているように、人間の無力さと存在の虚無を説く仏教を幼少期から叩き込まれたポルポトには、努力によって人は変わるという基本的な考え方が欠落していた。仏教の思想を突き詰めれば、人が何人死のうがそれはいずれ起こる必然に過ぎないわけで、それがクメール・ルージュに容赦ない生殺与奪の権利を与えてしまったのだと思う。
この仏教的な諦観は、クメール人の精神の奥底にしっかりと根を張っていた。この思想は、資本主義的な競争原理に基づく発展の対極に位置する。ポルポトは、こうしたクメール人の気質も鑑み、カンボジアを資本主義に打ち勝つ強大な国家にするためには、徹底的で前例のない思想改造、つまり原始共産主義への回帰が必要であると考えた。私利私欲を増長する通貨を廃止し、労働を楽にする工業生産を捨て、世俗的な思想に染まっていない子供を重用した。このストイックすぎる政策の裏にも仏教的な思想が見え隠れする。
この非現実的な政策を実現できたのは、ポルポトの強権によるところが大きいが、その強権を構築したものは前述の秘密主義だ。隠密のゲリラ活動の中で、ポルポトを頂点とした過度の情報統制体制が出来上がり、異分子はすぐさま密告される仕組みになっていた。そして、誰もポルポトの理想郷を邪魔することができなくなり、無知な農民の支持を集めたクメール・ルージュは首都プノンペンを制し、都市の住民を全て農村に即日強制移住させた。
こうして暗黒の共同監視社会が始まった。そして、発展の理想と退化の現実という自己矛盾を克服できず、密告から処刑への悪循環がはびこり、人口の1/3に近い命が失われてしまった。これが国を愛し過去の栄光を取り戻すための行為の結果だったというのは皮肉という他ない。しかし、ポルポトを弁解するつもりは全くないが、この悲劇の前には時代の歪んだ潮流がカンボジアそのものを飲み込もうとしていた事実がある。完膚なきまでにプライドをはぎ取られた民族は、ポルポトの存在に関わらず、極端で自己破壊的な道に進むしかなかったのではないか。そういう意味で、ポルポトとは一個人というより、近現代のカンボジアに絶えず流れる絶望の象徴といえるかもしれない。