早くもキガリ3日目。今日は南部に遠出をする予定なので少し早起きをした。キメニーさんの家のテラスに出て外を眺めると、遠くに美しい丘が見える。心が洗われるひと時。滞在中、朝この景色を眺めるのが日課になった。
今日の目的は、教会で虐殺が起きたニャマタ [Nyamata] という南部の小さな街に行くこと。ルワンダには鉄道がないので、長距離の移動は自ずとバスになる。長距離バスターミナルは近くのニャブゴゴ [Nyabugogo] という場所にあり、僕はモトを捕まえてそこまで向かった。
ニャブゴゴに着くと、周りは人とバイクで溢れ返っていた。人の多さに若干面喰いつつ、中間地点のニャンザ [Nyanza] 行きのバスチケットを買おうと、人を掻き分け薄暗いチケットショップへ。すると、どの店員もチケットを売ってくれず、代わりに通りの向こう側を指差した。首を傾げながら通りの向こう側に渡ってみると、やはり違う。やむなく電話機のそばにいる男性に話してみたら、気だるそうに元来た方向を指差した。海外恒例のたらい回しに焦りとイライラが止まらない。見知らぬ国でバスに乗るのは本当に難しい。
振り出しに戻ってニャンザ行きのバス探し。今度は並びの露店の若者に話を聞いてみると、後ろから別の若者が声を掛けてきた。彼に「ニャンザに行きたい」と言うと、人差し指でぶっきらぼうについてこいとの合図。救いの神、現る。彼はパラソルに座っている男性に話しかけ、チャージ式のバスカードを買ってくれた。そして、僕をニャンザ行きのバスまで連れていき、バスの運転手に何やら説明をしてくれた。このままバスに乗れなかったら、大金をはたいてタクシーしかないと思っていたので本当に助かった。ネットで調べた情報より若干要求されたお金が高かった気がしないでもないが、神様だって手数料は要る。
バスの前方に座ったら、次から次へと人が乗り込んできた。やがて、僕の横には5歳くらいの姉とまだ1、2歳と思しき弟が座った。弟は肌の色が違う僕に興味があるのか、僕の腕をやたらと触ってくる。姉はそんな弟を抱えながら僕を何度もチラ見。やがて姉も一緒に僕の腕を触りだした。何なんだ、この気恥ずかしい状況は。僕はルワンダの平和をしみじみ感じながら、姉弟に気まずい笑顔を振りまいて右腕を差し出した。
ルワンダのバスは満員にならないと動かないので、発車まで30分近く待つことになってしまった。やがてバスが動きだし、小一時間バスに揺られてニャンザに到着。さて、ゆっくり昼食でも取ろうとバスを降りようとしたら、若者がバスに群がってきた。テロでも起きたのかと怯えていると、ドアが開いた瞬間、「ニャマタ!ニャマタ!」と絶叫する若者がバスになだれ込むように殺到。僕がドアに近づくと、そのうちのひとりが僕の腕をぐいと掴んで外へ引きずり出した。彼は人を掻き分け、現地の言葉で何か話しながらワゴン車の方へ引っ張っていった。そして、後ろを振り返ると義足を着けた老人が「Come to my office…」とうめきながら寄ってきていた。気分は「Walking of the Dead(ゾンビドラマ))」の主人公。怖すぎる。要は単なる客引きの集団だったのだが、寿命が3時間は縮まった。
鉄板のように固いシートに座って外を眺めると、空と赤土しかないようなアフリカの雄大な自然が広がる。やがて、1時間弱で教会があるニャマタに到着した。着いた頃にはもうくたくたで、これ以上悪いことは起きないだろうと気持ちを切り替えて街の写真を撮っていたら、突然女性二人に「ついてきて」と声をかけられた。ひとりは私服の中年女性だが、その後ろにいるのは明らかに警官の女性。何が何だか分からず付いていくと、交番らしき場所に連れられ、僕はその奥の留置所のような場所に入れられた。理由は全く分からないが「警察に捕まった」と考える以外にない状況。室内には、やせ細った老人がかがんでプルプル震えていた。やばすぎる。
まもなく先ほどの女性二人が入ってきて、僕の一眼レフを取り上げた。そして、カメラで撮った写真を入念にチェックしながら、何をしにここにきて、何故こんなに大量の写真を撮っているかを執拗に聞かれた。観光でニャマタ虐殺記念館に来たと力説しても全く反応なし。私服の女性はさげずむような嫌な笑みをずっと浮かべていた。その後も、パスポートを確認されたり、身体検査をされたり、どこかに電話をされたり、分が悪くなる一方。もしかしたら予定通りに日本に帰れないかもしれないと最悪の状況を想像しながら、僕はしぶとく弁明を続けた。彼女らは僕がスパイか何かだと思っている風なので、ひたすら「I’m just a tourist!(僕は観光客だ!)”を連呼。おそらくこれを100回は繰り返したと思う。しかし、なかなか警官は納得しない。彼女たちからすると、建物や風景を大量に撮る意味が理解できないのかもしれない。そこで僕は少し切り口を変えて、ルワンダは景色が美しく、街もきれいで素晴らしいというべた褒め作戦に出た。すると、ようやく人畜無害な観光客と理解してくれたのか、僕は放り出されるように解放された。時間にして一時間も経っていないが、丸一日歩き倒したような疲労感。家に帰りたい。
気を取り直して、僕はニャマタ虐殺記念館となっている教会へ歩いて向かった。心身ともにぐったりしていた僕にとって、モトの人たちの優しい客引きが救いに思えた。教会は歩いて5分程度の場所にあり、周りには小さな小学校以外は何もなく、ここが本当に「記念館」かと疑いたくレベルだった。この教会はツチ族が身を隠すために使っていたものの、結局フツ族過激派に見つかりひとり残らず殺されてしまった悲しみの場所。犠牲者はこの教会だけで1万人にのぼるらしい。
他の地域と同様、犠牲者は神様のいる教会が安全と考えて(あるいは為政者に勧められて)避難したことで、結果的に殺されてしまった。人の命を守るためのシェルターであるはずの教会は、まとめてツチ族を殺すための民族浄化施設になっていたのだ。彼らは小銃と手榴弾で一瞬にして殺され、幸か不幸か生き残った者は、ルワンダ伝統の武器であるナタとくぎ付きのこん棒で始末された。
そんな教会の門を恐る恐るくぐって中に入ろうとすると、カラシニコフのような小銃を持った軍人が立ちはだかった。彼は無表情でガイドは必要かと質問し「内部の写真撮影は禁止」の旨を僕に伝えた。僕が電光石火のスピードで一眼レフをしまったことは言うまでもない。尋問直後だったので、小銃を持った軍人の存在は怖すぎた。
教会は200人も入ったらいっぱいになりそうな大きさで、照明がないため薄暗く、数名の軍人しかいない空間は気味が悪いくらい静かだった。長椅子には犠牲者の血で汚れた衣服が隙間なく積まれ、天井には数え切れないほどの銃痕が残っていた。まるで虐殺の瞬間から時が止まっているかのようだった。また、この教会には地下室があり、そこには無数の頭蓋骨と人骨が整然と展示されていた。ここは凄惨な虐殺が起きた場所なのだが、静寂の中に取り残された人骨は、その非現実的さゆえにある種の美しさと安らぎを宿す。それは人骨が余計なものをそぎ落とした人間の最後の形だからかもしれないし、人間に必ず訪れる死の平等を無言で証明しているからもしれない。
この教会の外にはアントニア・ロカテッリ [Antonia Locatelli] というイタリア人宣教師の追悼碑がある。彼女は虐殺の前から散発的に発生するフツ族過激派によるツチ族の虐殺を目撃しており、大使館やメディアにこの虐殺が「民族的な対立ではなく、政治的に仕組まれたものだ」と告発していた。彼女は命の危機に瀕したツチ族を匿い続け、1992年に過激派の政府軍に銃殺されてしまった。これはルワンダ虐殺が始まる2年前の出来事。僕ははるか遠くのこの地で命を落とした、勇気ある宣教師に黙とうを捧げた。
おびただしい数の遺品と骸骨に別れを告げ、ルワンダのどこにでもある小さな教会を後にした。教会の隣には小学生が敷地内で遊んでおり、僕がスマートフォンを持っているのを見ると「写真を撮って!」とせがんできた。屈託のない彼らは、自分たちが写った写真を見ると大喜びではしゃいでいた。
もう既に虐殺の過去から四半世紀。実体験として虐殺を知らない彼らは、穢れのない魂でルワンダの新しい未来を担っていくのだろう。彼らの笑顔を見ていると、廃墟の教会が過去の遺物に思えてきた。どんな悲劇も時が癒してくれるというのはきっと真実。嫌な思いもした短いニャマタ滞在だったが、最後は子供たちのおかげで全て帳消しになった。「ルワンダは千の丘と千の笑顔の国」というキャッチコピーは満更嘘ではない。少なくとも子供たちに限って言えば。