延びに延びた社会人卒業旅行第1弾は、シルクロードに決めた。やはり僕は中国が好きだし、中国西域にはロマンと冒険心を掻き立てられるものがある。裸足で砂漠に立ったらどんな気分だろう。ユーラシア大陸の真ん中にはどんな顔の人がいるのだろう。未知なるシルクロードのことを考えると、僕の中で期待と不安がトランポリンを始め出す。
出発当日の16日はまさかの台風直撃。不運に打ちひしがれた僕は、大雪の日の上海のフライトを思い出した。雨男ならぬ台風男。幸い遅れなく成田空港には着いたものの、結局、経由地の北京空港に着いたのは深夜1時頃。空港内は閉店間際のような薄暗さで、Air Chinaの国内線カウンタに係員らしき人は誰もいなかった。
細身の男性が僕に声を掛けてきたのは、空港で寝るかと諦めかけた時だった。彼は航空会社の職員らしく、僕の旅程をチェックして、ホテルを手配している旨を僕に告げた。僕は国内線でもこうしたサービスがあることに安堵して、飼い主を見つけた子犬のように何の疑いも抱かず彼に着いて行った。
僕が案内されたのは、まさかのヒルトンだった。細身の男性はタクシーの運転手を引き連れて、僕を先導して2階の部屋に招き入れた。そして、全員が部屋に入ると扉は厳粛な音を立てて閉められた。細身の男が、扉が閉まるや否や「ここに泊まるにはお金がかかる」と切り出してきた。しまったと思ったが、既に後の祭り。冷静になって男を見てみると、彼は航空会社の腕章の類をしていなかった。それに考えてみれば運転手までついてくるのは不自然過ぎる。僕の注意不足とは言え、初日から絶望的な状況が訪れてしまった。
以下、密室のやり取り。お金を払ってさっさと解放されたいという思いと、絶対不正には屈しないという思いで何度も平衡感覚を失い、一貫性のないやり取りになってしまった。今考えると向こうも焦っていたと思う。
男「ここの宿泊費は1,500元(≒24,000円)になる。」
僕「高すぎる。そんなに払えない。」
男「だけどこのホテルは高級だし空港にも近い。」
僕「それでも高すぎる。それなら空港で寝る。」
男「空港は2時で閉まる。じゃあ1,200元ならどうだ?」
僕「それでも払えない。そもそも飛行機を逃したのは僕のせいじゃない。」
男「事情はわかるが、このホテルはただでは泊まれない。」
僕「(半ば諦めて) 支払いはカードでいい?今僕は中国元を持っていない。」
男「カードは困る。現金のみだ。」
僕「大体、君たちは航空会社の人なの?名刺を見せてくれ。」
男「とにかくこのホテルにはただでは泊まれない。空港から近いし・・・。」
僕「分かった。今、日本円しかないから下に両替に行こう。」
男「ま、待て。じゃあ800元ならどうだ?」
僕「今、日本円は8,000円しかない。それ以上なら両替に行こう。」
男「分かった。日本円でいい。(といって8,000円を受け取る) あとはここまでのタクシー代が2,000円だ。」
僕「聞いてない。それに高すぎる。とにかく両替に行こう。」
男「中国元は少しも持ってないのか?」
僕「分かった。フロントに電話するから待ってくれ。」
男「もういい。」
こうして、細身の男と運転手は逃げるように出て行ってしまった。最後まで彼らの正体が分からなかったが、何はともあれこの暗中模索の状況下である程度の妥協点を導き出せて力が抜けた。それにしても、何と幸先の悪いスタートだろう。もう深夜2時過ぎにも関わらず、僕は8,000円のヒルトンを満喫しようと、湯船にゆっくり浸かって一日の疲れと折れた心を癒した。
早朝、眠気まなこをこすって、朝食を食べにエレベーターを下りた。トラブルの後の平和な朝食は格別だった。お腹が満たされるにつれ晴れやかになっていく僕の気持ち。勝利の美酒には程遠いが、僕は普段飲まないコーヒーをブラックで2杯も飲んだ。その苦味は、前日に味わった密室の苦味とほんの少し似ていた。並々注がれたコーヒーの黒い水面。そこには、まだ見ぬ西安がぼんやり映って小さく揺れていた。