翌日は仙台駅からほど近い荒浜小学校へ。仙台駅から東西線に乗って、終点の荒井駅からバスに乗ると小学校に着く。荒井駅はまだ手垢のついていないモダンな駅だったが、いかんせん周りに何もない。
バスを降りると荒浜小学校が目の前に見えたが、それより津波に根こそぎさらわれてしまったまっさらな大地が目を引く。おそらく海から1kmもない場所なので、当時は目も当てられない状況だったに違いない。10年以上経ってもこの状態なので、かつての姿を取り戻すにはあとどれくらいの月日が必要なのか。
荒浜小学校の隣に、住宅跡が震災遺構として保存されていた。太陽が降り注ぐ真っさらな土地にぽつんと残されたコンクリートの塊には、廃墟とはまた違った趣がある。跡形もなく壊れた家屋を見ると、津波がもたらすものは水害ではなく、徹底的な破壊だということがよくわかる。住宅の基礎からえぐるこの力はどこから来るのか。自然の力は恐ろしい。
海外沿いには慰霊碑があり、ここを訪れた人が代わる代わる黙とうしていた。そこから少し歩くと、きれいな砂浜と海がみえる。津波が来なければ、母なる海はこんなにも穏やか。
最後は荒浜小学校。震災当時、津波は校舎の2階まで到達したらしい。多くの被害者を出した大川小学校とは異なり、幸いこの学校の生徒は全て屋上に避難することができて救助されている。高台に避難して助かった南三陸町のエピソードを思い出すと、災害時の生と死は一重であり、水没した校舎に取り残された生徒たちの不安と恐怖は想像を絶する。
屋上に上がると、再開発中の町が一望できる。ここにはかつて多くの人が住んでいた。その人たちは今どこにいるのだろう。そう考えた時に、自分がいかにこの災害を他人事と捉えていたかに気付いた。家を飲み込まれた住民は、避難所から新たな土地で新居を探すことを余儀なくされ、心理的にも体力的にも金銭的にも苦しい生活を耐え忍ばなければならなかっただろう。災害とはその瞬間に終わるものでなく、本当の苦難は災害が収まってからなのだ。
南三陸町と荒浜をこの目で見て得られたことは「自分ごととして考える」という至極当たり前のマインドだった。外部の人間には災害が点にしか映らない。好奇心優先でここに来たことを恥じつつ、また訪れて町の復興を見てみたいと強く思った。