翌日は谷中村を目指して電車で移動。最寄りの板倉東洋大前駅からひたすら歩いた。レンタルサイクルもあったのだが、自然ゆたかなのどかさに惹かれて歩くことにした。実際のところ、歩いてみると谷中村跡地まで相当な距離があり、早々に軽率な判断を後悔した。
ここで谷中村の歴史を極々簡単に説明する。19世紀後半から足尾銅山の鉱毒が渡良瀬川下流に流れて広範囲に農作物への影響がでた。そのため、政府は鉱毒を貯めこむための貯水池を作ることにし、その場所が谷中村だった。このような状況なら普通は政府が住人に対ししっかり補償をするべきだが、やったことはその逆で、住人の土地を安く買い上げ、果ては反対を続ける住民の住居を強制的に破壊した。(そして、この政府の横暴に生涯をかけて抵抗したのが元衆議院議員の田中正造である。)
延々と歩いて貯水池の北端に着いた。ここから東に沿って行けば谷中村に着くが、貯水池の外れに合同慰霊碑があることが分かった。劣悪な環境に耐え、抵抗する過程で失われた住民の命もあっただろう。経済成長期の倫理の欠如を現代の視点で批判しても仕方ないが、住民は不憫と言う他ない。それにしても、何故こんな目立たないところに合同慰霊碑を作ったのだろう。色々と邪推したくなるが、ともあれ数多くの無縁仏に合掌した。
北端からずっと東に歩いて、ようやく谷中村の跡地についた。ここは公園になっていて、ピクニックをする家族連れで賑わっていた。もはや谷中村の不幸な歴史そのものが湖の底に沈んでいる。
跡地は説明書きと標木のみで、当時を感じさせるものはほとんどない。とはいえ、健康を害してでもこの土地に住み続けた人々と同じを景色を見ていると考えると、木々の奥を探せば住人に会えるような感覚になる。田中正造や住民の精神的支柱であった雷電神社跡も感慨深かった。
谷中村の廃村のいきさつに権力側の横暴があったことは間違いないが、一方で栃木県は住民の生活を考え様々な対案を出している。にも関わらず、破滅を恐れずかたくなに移住を拒んだ住民は何を思って抵抗を続けたのだろう。言い換えれば、住民のアイデンティティを構成するものは何かという問いでもある。隣人と関係性、先祖代々の歴史、変化への恐れ、権力に対する不信感・・・。考えればきりがないが、いずれにせよ交通も情報も革命的に発達した現代から当時を想像することは難しい。
一通り跡地を見て、鉱毒を巡る小旅行は終了。原型のない廃村を訪れるという体験は、共感することの難しさと嬉しさを同時に与えてくれるものだった。