「ファイナル・アカウント」とは
本作は、ナチス・ドイツの関係者や当時の民間人にホロコーストについてインタビューをした貴重なドキュメンタリー。
戦後70年以上が経過し、登場する証言者たちは皆 老境を迎えている。その意味でも、「ファイナルアカウント(=最後の証言)」というタイトルがぴったりの作品だった。
ちなみに、この映画の存在を知った時点で、上映館はまさかの 群馬県の高崎のみ。遠路はるばる、「シネマテークたかさき」まで足を運ぶことになった。
証言者たちの反応はさまざま
インタビューに答えていたのは、元親衛隊のメンバーや、虐殺が行われた地域に住んでいた住人たち。彼らのホロコーストに対する認識や罪の意識はまちまちだった。
- 「知らなかった」と言い逃れる者
- 「自分に責任はない」と開き直る者
- 反省し、若者と議論しようとする者
同じ加害者側の立場でも、受け止め方には 大きな温度差 があった。
日本にも、太平洋戦争について「間違っていなかった」と主張する人々がいるが、ドイツでも同じように 歴史をどう捉えるかは人それぞれ なのだと感じた。
一方で、ホロコーストに間接的に加担したことを悔い、若者と対話しようとする元親衛隊の老人もいた。しかし、彼の自虐的な考え方に対し、若者たちは敵意むき出し。この世代間の温度差もまた、日本と似ていると感じる部分だった。
程度の差はあれ、敗戦国は敗戦国の道をたどる のだろう。
集団犯罪の加害者はどこまで責められるべきか?
この映画のインタビューは、どんな形であれ ホロコーストに関わった者を糾弾し、反省を求める ものに見えた。だが、当時の社会状況を考えた時、未曽有の集団犯罪の中で動かざるを得なかった人々を、どこまで追い詰めるべきなのか という疑問も残る。
- ナチスに逆らえば、自分の命も危なかった
- 集団ヒステリーのような状態で、冷静でいることは難しかった
こうした状況下で個人の選択はどこまで可能だったのか?
とはいえ、被害者の立場からすれば、加担した者に どんな事情があったとしても、罰を求めるのは当然 だろう。加害者と被害者の関係が 絶対的な悪と絶対的な被害者 という構図になったとき、彼らの人間関係はどのように再構築できるのか。
もっと本音を引き出すインタビューを見たかった
個人的には、加害者の反省を求めるだけでなく、もっと本音を引き出すインタビューをしてほしかった というのが率直な感想。作者の意図が、臭いものに蓋をする加害者を白日の下にさらすことだったとしても。
- ユダヤ人への差別意識はどこから生まれたのか?
- ホロコーストを本当はどう感じていたのか?
こうした深い部分に踏み込むことなく、言い訳や否定を並べる証言 をただ聞かされるのは、正直、あまり建設的な視点にはつながらなかった。
とはいえ、高崎のミニシアター体験は貴重だった
とはいえ、高崎のミニシアターで映画を観る というのは、またとない経験になったのも事実。都内では観ることのできなかった作品を、こうして遠征してまで観ることになったのも何かの縁だったのかもしれない。