生存者の証言から見えるホロコーストの断絶
ホロコーストをミクロな視点で知ろうとするならば、やはり 生存者の証言 に頼るしかない。ただ、個人的に手記や自伝の類は主観に寄りすぎることがあり、あまり好みではない。
しかし、本書は 多くの生存者の証言を時系列で記録 し、さらにユダヤ人以外の証言も織り交ぜることで広い視点からホロコーストを捉えられるようになっている。
ユダヤ人とは、何でもないただの人
本書を読んで、結局 ユダヤ人とは何か と問われれば、「何でもないただの人」としか言いようがない。
確かに彼らの慣習は大多数のキリスト教徒とは異なる部分もあっただろうが、それでも 西欧に定着した一民族 であることに変わりはない。
興味深かったのは子供たちの証言で、多くの者が 幼少期には反ユダヤ的な扱いを受けていなかった こと。中には 自分がユダヤ人であることすら知らなかった というケースもあった。
信仰にもグラデーションがあり、ユダヤ人を一括りにすることは本質的に誤り なのだ。
ホロコースト後に生存者が直面した現実
生活の制限、差別、ゲットー隔離、機械的な処刑、収容所での非人間的な扱い――
生存者の証言には、かつてない規模の 人権侵害の記録 があふれている。
しかし、僕が最も興味を持ったのは ホロコースト後の生存者の考え方 だった。
ある者は ドイツ人を恨み、
ある者は 許し、
ある者は 神に選ばれたと感じ、
ある者は 信仰を捨てた。
それぞれの経験に対する反応は、当然ながら 一様ではなかった。しかし、その中でも 生存者に共通していたのは「断絶」だった。
正常化した世界の中で、彼らは 永遠に異邦人として生きるしかない。ホロコーストの異常な体験を語れば周りから疎まれ、逆に語らなければ心の距離を溝を埋められないのだ。
「ユダヤ人であっても、収容所にいなかった者には自分たちを理解できない」
――こうした言葉は あまりに重い。ホロコーストの経験は 決して癒されることはない のだ。
語られない犠牲者の記憶
ホロコーストに関する証言は アウシュビッツのものが圧倒的に多い。
しかし、それは アウシュビッツが特に過酷だったから ではない。単に 最後まで機能していた強制収容所 だったからだ。
例えば トレブリンカ強制収容所 では労働すらなく、犠牲者は ベルトコンベアのように ガス室に送られ、処刑された。さらに、最後には 収容所自体が跡形もなく破壊 されたため、証言者が 誰も生き残らなかった。
つまり、本当に恐ろしい収容所は生存者がいないが故に、証言すらないのだ。
歴史は、生き残った者によって作られる
アウシュビッツによって僕たちが 追想できるのは、ごく一部の犠牲者に過ぎない。
歴史は 生き残った者によって作られる という事実は、すなわち 歴史は常に不完全である ことを示している。
過去を振り返るとき、僕たちは 歴史の激流に埋もれた声なき声がある ことを、常に想像し、考え続けなければならない と思う。