おじさんに怒鳴られた通りの終わりにキガリ虐殺記念館はあった。人はまばらだったが、観光で来ている欧米人もちらほらいた。入口には警備員がいて、僕が日本人だと分かると「コンニチワ」と言ってくれた。アフリカのど真ん中でも日本の知名度があるとは驚き。
記念館では、ルワンダの近代から虐殺に至る経緯をパネルと映像で振り返ることができる。真新しい情報はないものの、初めて見る写真や映像をまさにそれが起きた場所で見ることは、単にネットで情報を知るのとは違う生々しさがある。あるインタビュー映像では、肉親や親類を目の前で何人も殺された人々がその体験を語っていた。ある種達観したような冷静な語り口を見ると、何とも歯がゆくやるせない気持ちになる。いくら気強く見えても、彼らの心の空洞は誰にも埋められない。
ルワンダ虐殺の原因を求めると、18世紀の帝国主義時代に遡る。他のアフリカ諸国と同様、ルワンダも西欧の植民地となり、第一次世界大戦後はベルギーの支配下に組み込まれた。このベルギーが採った統治方法が問題で、彼らは少数派のツチ族をその「外見の良さ」から自分たちにより近い種族として扱い、多数派のより「外見が悪い」フツ族を支配させた。この対立は第二次世界大戦後のルワンダ独立が達成されても続き、急速な経済発展後の不景気も重なって爆発してしまった。その結果、実に人口の10%にあたるツチ族およびフツ族穏健派が、フツ族過激派に虐殺されてしまった。こう書くと民族的な対立が自然発生的にピークを迎えたような印象を与えてしまうが、実はこの裏にはフツ族の民族主義を掲げる政府による綿密な計画があった。彼らはメディアを使って対立を煽りながら、全国のフツ族過激派部隊にツチ族をリストアップさせ、ツチ族を殲滅することであらゆる国内問題を解決しようとしたのだった。
虐殺という概念を個人レベルにまで落とすと、今まで普通に接していた隣人をリストを基にナタで斬り殺したわけで、その心理的なアルゴリズムを外側から解明するのは極めて難しい。別の言い方をすると「人はいかに洗脳されるか」ということになるが、ルワンダ虐殺について言えば、唯一と言っていい情報源であるラジオが、繰り返しツチ族の殺害を煽ったことが大きい。この荒唐無稽ともいえる大衆扇動に、権力者へ盲従する古来からの国民性が媒介したことで、不景気によって蓄積されたフラストレーションに火がついてしまった。一般市民が一般市民を100万人規模で殺戮するという異常事態は、主義主張によっては起こらないと僕は思う。虐殺に関わった多くのフツ族は、多かれ少なかれ元支配階級だった裕福なツチ族を殺すことで、自分たちが経済的困窮から脱することが出来ると「洗脳された」のではないだろうか。しかし、いくら洗脳されたところで、今まで暴力に無縁だった人々が隣人をナタで殺せるのか。この静から動に至る機微を理解することがどうしてもできない。
また、虐殺の要因として現代社会が大いに反省しなければならないのは、国連を含めた世界の無関心だ。国連軍として平和維持活動をし続けたロメオ・ダレール氏が、散々虐殺を止めるための対策を要求したにも関わらず、国連は「ルワンダの問題はルワンダ人が解決するべき」との態度を崩さなかった。その言い訳はいくらでもあると思うが、同氏が言うように「世界はアフリカの真ん中にある小国がどうなろうと知ったこっちゃない」というのが真相だろう。
キガリ虐殺記念館を後にしてベルギー平和維持軍祈念館へ向かった。虐殺を主導したフツ族過激派が、ツチ族と和平を結んだ大統領を乗せた飛行機を撃墜した後、更にフツ族穏健派の首相を護衛していた国連のベルギー人兵士をここで殺害した。国連の兵士に手を出すということは世界を敵に回すことになるが、フツ族過激派ははこうすることで国連軍が早々に撤退すると予想していた。つまり、国連は命を賭してまでルワンダを守らないことを、フツ族過激派は見抜いていたということになる。
軍人による身体チェックの後、敷地内に入ると銃弾の跡がそのまま残った建物が目に留まった。近づいて壁をまじまじと見ていると、受付にいたルワンダ人と思しき老人が話しかけてきてくれた。クセのある英語で半分程度しか理解できなかったが、彼は事件と建物のことを説明してくれた。首相の警護にあたった彼らは、もとはと言えばベルギーが対立の要因であるという事実をどのように受け止めていただろう。そして、彼らはここでフツ過激派に囲まれた時に何を思っただろう。答えのない問いを繰り返しながら、僕は床に置かれた花の前でお祈りをした。
帰りがけに部屋の片隅にあった訪問者用のノートをペラペラ見ていたら、老人が再び現れ、是非書いて行ってくれとお願いされた。気の利いたメッセージが思い浮かばないので、「Rest in Peace」とだけ書き置いて外に出た。
恐らくこの辺りはキガリ市内でも首都機能が集中しているエリア。建物も人通りも少なく、たまに目につくのは建設中の巨大なビルで、経済発展中のルワンダを実感できる。余談だが、ルワンダには所々にエボラ出血熱への注意を促すポスターがあり、エボラ出血熱の発生源がお隣の国という身近さは、虐殺とは別の次元で戦慄が走る。
負の遺産巡りの最後を飾るのは「ホテル・ルワンダ」の撮影場所にもなったオテル・デ・ミル・コリン [Hotel Des Mille Collines]。当時のこのホテルの支配人がフツ族過激派の軍人を取りなしながら、1,000人以上のツチ族避難民を救った。ルワンダを知ったきっかけとなったホテルであり、ここを訪れるのは今回の旅のハイライトのひとつ。しかも、このホテルは宿泊者でなくてもカフェの利用ができるのでありがたい。
多少のバツの悪さを感じながら高級ホテルの入口に入ると、やはり警備員と荷物検査の金属ゲートが待ち構えていた。本当に入れるのか不安に思いながら、警備員に丁重に尋ねると答えはあっさり「No」。そのロボットのような無表情に驚いたが、しぶとく説明をすると別な警備員があっさり許可してくれた。問題は僕の英語力だったのか、彼の英語力だったのか。
カフェに入るとまさかの貸切状態。僕は悠々とテラス席に腰を掛けて紅茶を注文した。てっきりアフリカンスタイルの生姜紅茶が出てくるのかと思いきや、置かれたのは普通の紅茶(クッキー付き)だった。店員の接客も非常に丁寧で感じがいい。僕はかいた汗を埋め合わせるように紅茶を飲んで、しばし感慨に浸った。
もうここには当時の恐怖や不安はなく、目の前には風そよぐ穏やかなルワンダの夕暮れが広がっている。それでも、少し想像を巡らせれば追い詰められた人々の恐怖や解放された時の安堵が、まるで映画にように脳裏をよぎる。僕の目に留まらない苦しみや悲しみは、ルワンダの至るところにいまだ散らばっているだろう。それでも、この国は歴史の大きなうねりの中で時の癒し受けながら、洗脳の呪縛が解けた人々の深い反省によって生まれ変わっている。つまり、平和なルワンダを見ること、これ自体が虐殺の痕跡を見ることのひとつなのだ。そんなことをひとり物憂げに考えて紅茶を足そうとしたら、ティーポットはすっかり空になっていた。