いよいよチェルノブイリツアーの日が来た。興奮で早朝に目が覚めてしまったので、少し早めに待ち合わせの独立広場へ。朝の心地よい日差しを浴びながらしばらく待っていると、ツアー参加者と思しき人がちらほら集まってきた。やがてツアー会社の人がやってきてパスポートチェックを開始。参加者は十数人でほぼ欧米人。アジア系は香港出身の2名と僕だけだった。
2台のバンに分かれて乗り込むと、備え付けのテレビからチェルノブイリのドキュメンタリーが流れた。そして、ガイドから注意事項の説明があり、事前に申込んでいたガイガーカウンターが手渡された。周りはこの黄色のデバイスに興味津々で、我も我もとレンタルを申し出た。ちょっとした優越感に顔がにやける。
1時間ほど経っただろうか、バスが停まって制服を着た軍人が中に入ってきた。やがてパスポートチェックが始まりしばらく待機。ここからチェルノブイリの立入禁止エリアに入るのだろう。
無事チェックを終えて外に出ると、だだっ広い道路を遮る検問所が見えた。ここは原発から約30kmのところにあるDityatkyという町。軍人や軍施設は撮らないようにとの注意があったので、手前の戦車やギフトショップを撮影した。歴史に残る大惨事にも関わらず、メッセージ性のないグッズが並ぶギフトショップが熱い。チェルノブイリブランドのアイスクリームも売っていた。
検問所を通過して数十分で原発から約20㎞地点のチェルノブイリの町の入口に到着。そこにはソ連時代の町の看板が見えた。チェルノブイリは不幸な歴史により有名になってしまったが、元々はウクライナにあるごくごく普通の牧歌的な田舎町だったのだろう。ちなみにガイガーカウンターで放射線量を計ったら0.14μSvだった。ガイドの話では 0.5μSvまでは正常値とのこと。
次に止まったのはレーニン像の前。ソ連の実質的支配下で人工的大飢饉に見舞われ、世界最大の原発事故が起こったことを考えると、この像の存在自体が痛烈な皮肉に思える。自然の中で風化した像を見ると、ここだけ時が止まっているかのようだ。
レーニン像の少し先にラッパを吹く不気味な彫刻があった。聖書に「天使がラッパを吹くと、ニガヨモギという名の星が落ちてきて、水が苦くなって多くの人が死んだ」というエピソードがあるらしく、それに原発事故をなぞらえたらしい。要は宿命だということなのか。
天使の彫刻の向かいは、墓標が連なった道になっていた。てっきり殉職者を弔っているのかと思ったが、これらは全て原発事故で居住不能になった町の名前らしい。この墓標の数が放射能の悪魔的な威力を証明している。
チェルノブイリの町には、他にも記念碑や展示がいくつかある。中でも印象的だったのは、Monument Of Those Who Saved The Worldという事故直後に消火活動にあたって殉職した人々の追悼碑。彼らはきっと真相を知らされずに死地に赴いたのだろう。何故なら過去も現在も、これ程の放射線を防ぐような防護服は存在しないのだから。(しかも、当時ソ連はスウェーデン政府に指摘されるまで原発事故の事実を隠蔽していた。)
お昼はチェルノブイリの町にあるログハウスのようなレストラン。てっきり軍の施設で給食のような食事をするのかと思っていたので驚いた。チェルノブイリという放射能を象徴する土地で、安全にパンとスープと肉を食べるのはなんとも奇妙な気分。もちろん放射線レベルも正常値。同席した人々とちょっとしたコミュニケーションも取れ、なかなか有意義な時間だった。
(続く)