東欧 / Eastern Europe Part.13 (オリンピックスタジアム跡)

ホテルの周り [by D5100]
ホテルの周り [by D5100]

サラエボ2日目の朝。旧市街で再びCevapiを食べていたら、ホテルを取っていないことを思い出した。戻ってフロントに空きを尋ねたところ、既に満員御礼。サラエボを見くびっていた。チェックアウト後は、ロビーでひたすらホテル探し。他のホテルも満室が多く、思った以上に時間がかかってしまった。ようやく取れたホテルは、雪に囲まれた僻地の牢獄のようだった。


オリンピックスタジアム墓地 [by D5100]
オリンピックスタジアム墓地 [by D5100]
オリンピックスタジアム墓地 [by D5100]
オリンピックスタジアム墓地 [by D5100]
オリンピックスタジアム墓地 [by D5100]

この日の目的はオリンピックスタジアム。正確にはそこの前にある墓地。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争中に墓地が足りなくなったために、グラウンドを墓地にしたらしい。簡単に言うと、この内戦はセルビア人(セルビア正教)とボスニャック人(イスラム系)との民族紛争。ユーゴ解体の中で、政治的主導権を握ったボスニャック人勢力に対してセルビア人勢力が反抗したのが始まり。

タクシーで現地に行くと、五輪の塔の前に無数のお墓が見えた。雪に覆われた白い墓石は、寂しくも美しい。周りに人は誰もおらず、僕は自分の白い息を確認しながら整然と並ぶ命の証拠を眺めた。墓石の記載を見てみると、やはり1991~94年のものが多かった。平和のイベントの開催地に内戦被害者を埋めなければならないとは何という皮肉。それにしても、これだけ多くの墓石を一望すると、内戦による死があたかも必然で、それが人間による正当な行為であるかのように思えてくる。墓地が伝えるものは安らぎであって、決して怒りや憎しみではない。


マーケット [by D5100]
マーケット [by D5100]
マーケット [by D5100]
マーケット [by D5100]
マーケット [by iPhone5]

墓地の後は、悶々と考えごとをしながら市内の中心地まで徒歩。すると、途中で地元のマーケットを見かけた。面白そうなので中に入ってみると洋服やら食べ物やら日用品が売られていた。きれいとは言いがたい雑然としたマーケットだったが、生活するとは本来こういうこと。アジア人が珍しいのか、歩いているとやたらと笑顔で声をかけられた。謎の歓迎ムード。が、とあるおじさんには「マフィア、マフィア」と真顔で言われた。


木 [by D5100]
マーケット [by D5100]
階段 [by D5100]

市内の中心地に戻った後は、お腹が空いたので夕食。30分以上歩いたので、体の末端は冷たいを通り越して感覚がなくなっていた。メニューは体が温まりそうなものを頼んだのだが、割と冷めていてがっかり。和食が恋しい。


ミュージアム [by D5100]
ミュージアム [by D5100]

サラエボ最後の夜は、1995年のスレブレニツァ大虐殺を扱ったミュージアムに立ち寄ることにした。この虐殺はセルビア人による民族浄化が目的で、被害にあったのは前述のボスニャック人。狭いミュージアムには犠牲者の顔写真と虐殺にまつわる写真が展示されていて、奥では短いドキュメンタリーが上映されていた。

ここで僕はドキュメンタリーを二度観賞した。ようやく避難所にたどり着いて号泣する男性の姿には苦しいくらい胸を打たれた。いつだって苦しみや悲しみは強い者から弱い者に流れてゆく。特に衝撃だったのは、スレブレニツァは国連指定の避難地域だったということ。安全宣言の2年後にセルビア軍による虐殺が始まったのだ。保障された楽園が地獄に変わった時の恐ろしさは想像を絶する。8,000人が埋められたこの街に、癒しきれない深手を負ったこの街に、真の平穏が訪れるのはずっと先のことだろう。

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