世界の広さと人生の短さに折り合いを付けるべく、今更ながらロンドンに1ヶ月半ほど留学することにした。またこれは、怠惰な学生時代に対する小さな雪辱戦でもある。海外旅行をするようになって数年、学生時代に留学しておけばよかったという思いが僕の中に粉雪のごとく積もっていた。仕事も辞めたことだし、これを逃せばきっと一生ヨーロッパには行かないだろう。
ロンドンに決めた理由は3つ。ひとつは、イギリスをはじめヨーロッパに行ったことがない点。もうひとつは、アメリカの場合、手続きが面倒で時間がかかる点。最後は、我が家系唯一の英才である従姉妹の勧めがあった点。
ロンドンへはチケットの関係で上海で1泊。その上海ではiPhoneを落として画面にひびが入り、ホテルでは予約が見つからないというトラブルに見舞われた。何故、中国は恩を仇で返すのか。ただし、ホテルのスタッフがたどたどしくも懸命に対応してくれた点は評価したい。
翌日の13時間のフライトは人が少なく、予想よりずっと快適だった。2回出された機内食の味もまずまず。機内で見た字幕なしの「ショーシャンクの空」には大して感動しなかった。日本語字幕付きで見れたら、きっと涙を流していたことだろう。
ロンドンに着いたのは夜の8時。飛行機が着陸した時の騒音は、僕を歓迎しているようにも拒絶しているようにも聞こえた。手間が掛かると噂の入国手続きでは、やはり係員の質問攻めにあった。口頭で言った滞在期間が1日違っただけで問い詰めてくるお役所仕事。帰りの旅程の詳細まで伝えなければならない理由が分からない。おかげで、空港を出た時に味わうはずだった生まれ変わるような感動は、空気の抜けた風船のようにみすぼらしくしぼんでしまった。
瑣末なやり取りと長旅の疲れがどっと出て、タクシーではうつらうつら。気がつけば僕は閑静な住宅街の中にいた。ホームステイするのはArnos Groveというロンドンの北部。通りにはイギリスの伝統を感じさせる統一感のある建物が、厳かな祭礼の時のように沈黙を守って立ち並んでいた。
家の扉をノックした僕を出迎えてくれたのは、人の良さそうな老夫婦。そして、あてがわれた部屋は屋根裏部屋。広くて快適そうだし、家具やデザインや部屋の匂い、全てが新鮮だった。僕は荷物を紐解いて、早速ベッドに倒れこんだ。13時間の長旅の疲れをゆっくり吸収し始めるふかふかのダブルベッド。混濁する意識の中、自分がはるか彼方の異文化圏にいると考えると、自分が現代の技術の恩恵に預かって生きていることを痛感する。そして、その技術により世界は本当に小さくなっている。
翌日は8:30からクラス分けのテストがあるので6時に起床。前日は時差ボケで何度か目が覚めてしまいあまり眠れなかった。朝食はシンプルに食パンとコーンフレーク。何故か食べている時にビスケットを勧められたが、これがイギリス流らしい。
学校はホルボーン [Horborn] というロンドンの中心部にある。移動は当然電車。そして、ロンドンの主要な電車はほぼ地下鉄。車内に入って驚かされたのは、多様な人種。白人、黒人、黄色人、ありとあらゆる人種が狭い車内に詰め込まれていた。ほとんどが生粋のイギリス人であると思った僕には衝撃の光景。アジア人の僕が乗っても全く違和感がない。
さて、学校に入ってドキドキしながら集合場所のカフェに入ると、周りはほとんどが西洋人だった。アジア人は完全に僕ひとりで非常に肩身が狭い。取り敢えず黙々と筆記とリスニングのテストをこなし、最後は面接。結果は、どうにか目的のクラスに入ることが出来た。実力的には中級の中級。要するに基本的な言語能力は認められたことになる。
オリエンテーションが終わり、お昼の時間。初日からひとりで食事をするのは流石にどうかと思ったので、何人かに声をかけてみた。まるで気分は入学したての高校生。反応が良かったのは、フランス人のイケメン男性。名前はアラン。日本文化に多少興味があるようで、村上春樹が好きだと言っていた。おそらくフランス人の性質なのだと思うのだが、とにかく饒舌。呼吸するがごとくに話をする。パスポートの話になった時、彼から「日本のパスポートの開く向きが漫画と逆だけど何故なんだ?」と質問された。全く予想だにしないどうでもいい質問に箸が止まる(正確にはフォークが止まる)。とりあえず僕は、政府は漫画が気に入らないからだと答えておいた。彼は眉間に皺を寄せ深く頷いていた。
午後は、初日ということでチームを組んでロンドン探検。僕のチームは前述のフランス人とアフリカの人(国名聞き取れず)とドイツ人。フランス人とドイツ人は英語が極めて流暢で、何故勉強しに来たのか全く分からないほど。聞いてみたら、彼らの滞在はたったの1週間らしい。要はレジャー感覚。
夜は懇親会と称して近場のパブで飲み会。と言っても日本人のように何倍も飲む人はおらず、1杯飲んで談笑してお開き。さすが30歳以上向けの学校だけあって、羽目を外すような愚か者はいなかった。安心と共に、この紳士な環境でうまく立ち回れるか不安が募る。いずれにせよ、留学デビューは一応の成功をみたのでよしとしよう。