歩いて程なくして、繁華街らしき場所にたどり着いた。そこには大規模な洋服の青空マーケットがあり、先に進むとイスラム系の人々が営む露店がたくさんあった。彼らは大半がウイグル人だと思うのだが、顔は様々で、誰がどういう国家的、文化的アイデンティティを持っているのかさっぱり分からなかった。ここにあるのはアジア版の人種の坩堝。中国西域は想像以上にカオスだった。
もちろん中国人と一目でわかる人もたくさんいて、人数比は半々くらいだろうか。しかし、中国人旅行客を差し引くと、ここで商売をしているのはウイグル人の方が多いと言えそう。一体、ウイグル人と中国人の関係はどうなのだろう。気になった僕は騒がしい繁華街を一通り歩いてみた。しかし、民族間の軋轢のようなものは感じられず、ベールとつばなし帽以外は至って普通の見慣れたアジアの繁華街だった。
しかし、ウイグル人の政治的な抑圧状態を伝えるものがひとつだけあった。それは通りに小さな居を構える中国の警察。SWATと書かれた建物の中を通りにがけにこっそり見たら、中には長い警棒を持った警察官が7、8人待機していた。彼らはきっと4年前のウイグル騒乱でも”活躍”したのだろう。
繁華街を徘徊した後は、人民広場と呼ばれる広場へ向かった。場所が分からないので、「人民広場」と打ったiPhoneの画面を何度も人に見せて確認。簡体字でないのにも関わらず、聞いた人は全員同じ方向を指してくれた。ここウルムチは、僕を散々苦しめてきた「たらい回し」の文化圏ではないのかもしれない。
人民公園到着。実はこの公園に来たのは、天池という絶景の景勝地へのツアーを予約できるという情報をネットで得たため。だが、見渡す限りここはただの広場。旅行代理店の類は一切なく、ハトと中国共産党の記念碑しか見当たらない。記念碑には誇らしげに「中国人民解放軍進軍新疆記念」と書かれていた。そして、その右側面にはウイグル語の翻訳。ウイグル人にとって、これは敗北と支配の象徴だろう。しかし、中国のこの地への関わりは1,000年以上前からの話で、支配するという点については中国が悪いと一概に断罪はできない。大国のそばに生きる少数民族の宿命とも言える。
旅行代理店を見つけられなかった僕は、繁華街の方へ戻った。そして、繁華街の裏側に回ってみると、ウイグル人の集団がせわしなく何かの準備に追われているのが見えた。きっと夜のマーケットの準備に違いない。あまり漢民族は見かけなったので、やはりこの辺りはウイグル人の商圏なのだろう。
繁華街の隣には、道路を挟んで大きな公園がある。多分人民公園という名前だった気がするが定かではない。ここでは多くの市民が民族音楽に合わせて踊りを踊っていた。僕の目を引いたのは、この踊りの少し風変わりな振り付け。彼らは阿波踊りのような動きをしながら、時折くるくる回転していた。後で事情通の友人に聞いたらこれは中央アジアのスタイルらしい。
もう十分ウルムチを満喫したので、食事をして帰ることに。僕は昼のレストランで見かけたピラフを食べるため、途中で見かけたウイグル人のレストラン街に向かった。このピラフは国民食なのだろう、どの店もピラフが入った大きな鍋を店頭に置いていた。
注文して出てきたのは、山盛りのピラフと付け合せの野菜。上には何かのリブが乗っていて、食べてみたら羊だった。羊のリブはほとんどが脂で、食べていると口と手がてかてかになる。西安では羊の脂身は臭いが気になって食べれなかったが、こちらはすんなり食べれた。鮮度が違うのか、それとも調理法が違うのか。何にせよ、これもラグマンと同様辛くなかったのでおいしく頂いた。
帰りは乗ってきたバスで戻ろうと思ったのだが、今自分の所在地すら分からない人間がホテル行きのバス停を見つけられるはずがない。歩き疲れていた僕は、すんなりバスを諦めてタクシーに乗ることにした。しかし、ここで予想外の困難に直面。タクシーが全く止まってくれないのだ。僕を避けているわけではなく、どのタクシーも客を乗せている状態。タクシー乗り場もないし、混沌とした道路でひたすら手を上げ続ける苦行が続いた。
結局、タクシーを捕まえられたのは30分後。疲労と苛立ちで僕の心は完全に折れていた。しかもウイグル人のタクシーの運転手はホテルの場所をはっきり把握できず、執拗に僕を質問攻め。住所を見せる以外に手段がない僕は、ウイグル語を被弾し続けて満身創痍。不毛のやり取りを経て無事にホテルについた僕は、この旅で初めてビールの缶を開けた。ウルムチに乾杯というわけではないが、今日体験した異文化の衝撃と歩き倒した疲労を整理するには、ほんの少しアルコールの助けが必要だった。